15.軽井沢高原文庫通信 82号(2013年11月25日)
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軽井沢と二人の詩人
軽井沢には今まで四度ほど行ったことがある。一度目は大学を卒業して最初の夏。一九七五年。職
場の夏期休暇を利用しての一人旅だった。そのときに撮った写真の中に、「追分宿の分去れ」と書かれ
た道標の写真がある。古いアルバムをめくり、その色褪せた写真を見るたびに、まだ詩を書きはじめて
間もない頃のことが懐かしくよみがえってくる。
大学の三年頃から詩を書き始め、最初にのめりこんだのが三好達治だった。達治を通してその周辺
の詩人たちを知るようになり、やがて自然な流れで四季派の詩人たちの詩にも惹かれていった。中でも
特に惹かれたのが立原道造だった。美しい高原を舞台に、青春の感傷を夢見るように歌ったその詩
は、同じ年頃の感傷癖を持った若者を魅了するに十分だった。大阪という雑然とした街に生まれ育った
自分にとって、高原というのは別世界であり、また詩の源泉のような所に思われた。ここに行ってみた
い。そんな思いに駆られての旅だった。
追分は道造が先輩作家堀辰雄の保養先を訪ね、それ以後、彼の信州での拠点となった場所である。
二十四歳で夭折するまで、この高原の風物を愛し、そこで恋をし、多くの詩を書いた。同じ場所を歩いて
いると、四十年ほど前に逝った彼が、まだ若い日の姿のままにどこかを歩いているように思われてき
た。「分去れ」という場所へ行き、わざわざ写真に収めたのも、今ではよく思い出せないが、道造の詩か
評伝のようなものに出ていたからだったと思う。
軽井沢へはそれから二度ほど行ったが、そのときは追分には寄らなかったように思う。もう一度追分
へ行くことになるのは、最初の旅から二十数年を経た夏のことだった。今度は道造ではなく、現役の詩
人に会うのが目的の旅だった。
その現役の詩人とは岸田衿子さん。群馬県沼田市主催で始まる「柳波賞」という童謡詩の選考委員に
衿子さんから請われたのがきっかけだった。選考会の前に一度会いましょうという話になり、それじゃ毎
年信州に旅行していることだし、衿子さんの地元でもある軽井沢でということになった。このときの待ち合
わせが信濃追分の駅だった。二十数年ぶりに降り立った駅は昔と変わらずひっそりとしたままで、それ
はちょっと意外でもあった。そのとき同じく柳波賞の選考委員になる中川李枝子さんもご一緒だった。駅
前の小さな喫茶店に入り、一時間ほどあれこれとお話をした。衿子さんたちは追分の別荘で療養中の
石井桃子さんのお見舞いの帰りとのことだった。駅で中川さんと別れ、その後、衿子さんの北軽井沢の
別荘に招かれて行った。林の中の、童話にでも出てきそうな瀟洒な建物だった。そこで数時間過ごし、
その後、その日に泊まるホテルまで車で送っていただいた。四桁の数字が並ぶ変わった名前のホテル
で、そこも、またその次の日に泊まる南軽井沢のペンションも、衿子さんが手配してくださっていた。こう
した心遣いが、そのまま衿子さんの詩に通じているように思われた。
軽井沢と言えば、中心の賑やかな観光地ではなく、二人の詩人に出会った追分の町を思い起こす。そ
して、町外れの「分去れ」は、自分にとって、詩へ向かう道を指し示す道標でもあったような気がする。
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14.大阪芸術大学文芸学科機関誌「文藝13」(第4号 2013.7.10)「教員寸言録」
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毎年、「講読と理解」二回目の授業で三好達治の「甃(いし)のうへ」という詩を紹介しています。「あはれ
花びらながれ/をみなごに花びらながれ」と始まる詩ですが、文語調なので、学生たちにはなかなか理
解しづらいようです。「あはれって何ですか」「をみなごって何ですか」と聞かれるのはまだいいとして、
「み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ」の「甍って何ですか」と聞かれると、えっ?と思います。ほぼ全員が
知りません。聞かれるたびにこちらは、「鯉のぼりの歌に出てくるやろ?」と言って、「甍の波と雲の波…」
と最初の部分を歌います。最近は小学校でこの歌を教えていないのだろうか。それとも子供たちは意味
も分からずに歌っているのだろうか。そんなことを考えながら、毎年、「鯉のぼり」の歌を歌っています。
今年も歌いました。
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13.ガーネット・タイム「わびしい話」(59号 2009.11.1)
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昔読んだ村上春樹さんのエッセイに、「世の中でいちばんわびしい行為とは何か?」というのがあっ
た。それについて氏は、「十月初めのしとしとと秋雨の降る夜に文芸誌の編集者と二人で神宮球場に行
って、柿のたねを食べ、仕事の話をしながらヤクルト対中日の日程消化ゲームを眺めることである」と書
いていた。僕にはそんな経験はないけれど、これはいかにもわびしそうである。
自分自身の経験で、今までで一番わびしいと感じたことは何か、と考えてみる。そして、まだ宮仕えをし
ていた頃のことを思い出した。今から二十年以上も前の話である。
あるイベントで、三十分ほどの話をしなければならなくなった。もちろん仕事上のことだから詩について
の話ではない。「森の生態」についての話。「君が一番詳しいだろうから」という上司の命令で、否応なくさ
せられることになった。「緑の啓発」をテーマにしたかなり大がかりなイベントの一環で、会場も千五百人
は入るホールが使われた。主催者側はとにかく人を集めなければならない。入場無料ではあるけれど、
堅い話だけでは人が集まらない。そこで有名な歌手によるミニコンサートがプログラムに組まれた。主催
者の思惑通り会場は人で埋まった。コンサートの後がこちらの出番である。舞台の袖で待ちながら、何
となくイヤな予感がしていた。そしてその予感は見事に的中した。コンサートが終わるやいなや、会場か
ら人は出ていった。まさに潮が引くように出ていった。広い会場に残っていたのはほんの二、三十人ほ
ど。それもほとんどが関係者ばかり。その中で予定通り話をしたが、この時ほどわびしい(と言うかみじ
めと言うか)気分を味わったことはない。
ひと月ほど前、町内会の役員の人から、詩の話をしてもらえませんかと頼まれた。どこかで僕が詩を
書いたりしているのを知ったらしい。日は十一月末の日曜日。予定も空いていたし、町内の付き合いも
大切だからと引き受けた。先日、「秋の文化祭」と書かれた回覧板の校正を見せられた。そのいっぱい
並んだプログラムの下の方に小さく一行、「高階さんの詩の話」とだけ書かれてあった。何だかイヤな予
感がする。
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ジャンルを越えた世界を目指して
「たまや」という、ちょっと風変わりな名前の文芸誌が手元に届いた。この五月発行の最新刊(第四
号)。詩歌を中心に、写真、評論などが掲載されている。
目次を見ると、作者名と作品名しか載っていない。普通、どんな雑誌でも内容毎にきちんとジャンル分
けされている。目次を見ただけでその本の概要がおおよそ分かる。しかし本誌にはそのジャンル分けが
ない。本文を開くまで、その作品が詩なのか俳句なのか写真なのか全く分からない。読者には不親切な
目次だが、ここにはさまざまな芸術のジャンルを越えて、あるいは融合させて、新たな表現世界を生み
出したいとする、編集者の強い意思が表れているように思われる。
執筆者は総勢三十人。加藤郁乎、岡井隆、安水稔和、立松和平、穂村弘といった著名な書き手の名
が連なっている。当然これは商業誌だと思いきや、目次の脇に小さく、「(本書は)不定期刊行の同人誌
である」と記されている。同人誌であるということは、同人が費用を負担し合って発行していることにな
る。うーん、と考え込んでしまう。現在の出版業界の厳しい状況を思わずにはいられない。
つい最近の新聞に、人気マンガを連載中の漫画週刊誌が休刊になるという記事が載っていた。マンガ
誌でさえ売れない時代に、マイナーな中でもマイナーな詩歌中心の文芸誌が売れるはずがない、という
のは自明のことであるのかもしれないが……。
こうした状況の中、自腹を切ってでも敢えて本誌を出そうとするのは、書き手の側の、たとえ売れなくて
も、真の芸術を読者に届けたいという熱い想いがあるからだろう。
発行所の住所は東京になっているが、編集は関西在住の詩人季村敏夫と瀧克則が担っている。関西
発のこのユニークな文芸誌が、既存の詩壇や文壇に波紋を投ずることを期待したい。
「一個の雲がしずかに夜を通過する/野原では獣が純白の骨をさらしている」(管啓次郎「Agendars」
より)
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春を告げる魚
春を告げる鳥と言えばウグイス。「春告鳥(はるつげどり)」がそのまま異称となっている。
では、春を告げる魚と言えば何だろう?
まず思い浮かぶのは魚ヘンに春と書くサワラであるが、ウグイスと同様、「春告魚(はるつげうお)」とい
う異称を授けられているのはニシン。
「でもそんなの関係ねえ」
と神戸や明石に暮らす人達は言うかもしれない。この人達にとって、春を告げる魚と言えばサワラでも
ニシンでもなく、なによりまずイカナゴだろう。
六年前、神戸に引っ越してきて初めての春、スーパーにイカナゴの釘煮を入れる専用の容器が売られ
ているのには驚いた。自分の家で作った釘煮を知人に贈るのがこの土地の習わしになっているのだと
いうことも、この時初めて知った。にわか神戸人の我が家では、作ることもなく、もっぱら知人の好意に
甘えている。毎年これが届くと、ああもうそんな時季なんだなと思う。
ところでこの釘煮、ずっと釘を入れて炊くからそんな名前が付いているんだと思っていた。ある時家人
にそう言うと、「あれは錆びた釘に似ているからよ」と笑われた。
食卓の、焦げ茶色になったイカナゴしか知らないから、元の姿は思い浮かばないけれど、広辞苑で調
べると、「背部は青褐色、下腹部は銀白色」と書かれていた。別名、小女子(こうなご)とも。小さな女の
子。その何万、何十万という稚魚が、大きな網の上でキラキラと跳ねている姿が浮かぶ。春の、のどか
な海の景色が浮かぶ。
春から始まったこの連載も今回で最後になりました。一年間のご愛読、ありがとうございました。
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殿様のその後
旅に出て、どこか知らない土地に行くと、ここは江戸時代、何藩の領地だったのか知りたくなる。知った
ところで別にどうということもないのだけれど、戦国時代の知っている武将の名前が出てきたりすると、
何となく親しみが湧く。ああ、あの武将は有為転変を経てここへやってきたんだな、という感慨も湧く。
ところが灯台下暗し、これを書きながら、地元のことはまるで知らないことに気が付いた。
そこで、今自分の住んでいる所(神戸市の最北)が何藩の領地だったのか調べてみた。その結果、た
ぶん三田藩の領地だったのだろうと推定された。たぶんと書いたのは、当時の境界を示す資料が見つ
からなかったからで、ひょっとしたら隣接する尼崎藩の領地であったかもしれない。
三田藩・九鬼家は、元は鳥羽を本拠とした水軍の家柄で、江戸時代初期、お家騒動を起こし、本拠の
海辺から、山間の三田と綾部へ領地を二分して移され、幕末に至っている。
去年刊行された「江戸300藩 殿様のその後」(朝日新書)という本を読んでいたら、この三田藩・九鬼
家のことも載っていた。最後の藩主隆義(たかよし)は、維新後、藩士救済のため輸入商会を設立し、
「明治初期の神戸の街作りに貢献した」と記されていた。それから五代目の当主は、某大企業で携帯電
話の開発などに携わり、現在その子会社の社長になっているという。
一方、尼崎藩・桜井(松平)家の最後の藩主は、日本赤十字の前身にあたる博愛社を設立し、当主は
大手広告会社に勤務しているとのこと。
世が世なれば殿様であるどちらの当主も、すこぶる現代的な仕事に従事しているところがおもしろい。
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回転焼きと人工衛星
もうずいぶん前のことだが、上京時、ある飲み会の席で、「回転焼きって何?」と聞かれたことがある。
それで初めて、回転焼きが全国共通の呼称ではない、ということを知った。
関西人で回転焼きを知らない人はまずいない。大阪で生まれ育った僕などは、回転焼きよりむしろ「た
いこまんじゅう」の方がなじみが深い。子供の頃、屋台の多くに、「太閤まんじゅう」と書かれていたような
気がする。
太閤まんじゅうはともかく、回転焼きは標準語だと思い込んでいたので、飲み会での質問は実に意外
なことだった。
帰宅後、ネットで回転焼きの呼称について調べてみた。その結果、全国に広く通用している呼称は「大
判焼き」であることが判明した。「回転焼き」は関西と九州に多く、関東周辺では「今川焼き」が一般的な
呼称であるようだった。
他にも地方によってさまざまな呼び名があることが分かった。おもしろいところでは、「ふうまん」(岡山)
「ふうふまんじゅう」(鳥取)「二重焼き」(島根、広島、山口)など。さらに、「ロンドン焼き」「大砲焼き」「人
工衛星」などという珍名もあった。お菓子に限らず、ひとつの食品でこれほどたくさんの別称があるの
は、この回転焼きぐらいではなかろうか。
ところで、珍名に挙げた「人工衛星」は、なんと地元兵庫県の呼称の中にあった。いったい県内のどの
あたりでこのような呼び方がされているのだろう。
「人工衛星を一つください」
「はいどうぞ」
道端でこんな会話が交わされている町を、いつか訪ねてみたいと思う。
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小さなクリスマス
クリスマスの始まりが年々早くなっているような気がする。
11月ともなれば、どこそこでクリスマスツリーの点灯が始まったというような記事が新聞に出始める。
こうした前倒しは企業の戦略だとは思うけれど、それにしても紅葉もまだ始まっていない時期に、ちと早
過ぎるような気がしないでもない。
と、こんなことを書いている僕は、実はクリスマス大好き人間である。11月も半ばともなれば、クリスマ
スソングをかけ始め、「もう、クリスマス?」と妻から笑われたりしている。だから、企業のことをとやかく
言えたものではない。
それはともかく、クリスマスのどこに惹かれるのだろう? それはどこか日常から離れたファンタジック
なところにあるのかもしれない。きれいなイルミネーション、サンタクロースや贈り物、そしてたくさんの夢
にあふれた物語。それらを通して、こんな自分にも何かいいことがあるような、そんな気がしてきたりす
る。
神戸で初めてルミナリエを見た時の感動は忘れられない。目の前に突然広がった光の渦は、あっと息
をのむような美しさだった。それとは比べようもないが、子供の頃の、クリスマスのことを思い出す。
小学校の五六年の頃だったか、母と妹と三人でクリスマスツリーの飾りつけをしたことがある。綿をち
ぎってかぶせ、星や玉の飾りを思い思いのところにつけた。できあがって部屋の明りを消すと、闇の中
に豆球の明りが輝いた。それは小さなクリスマスツリーであったけれど、その日の明りは今も消えず、心
の片隅に灯っている。
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赤とんぼの町
国民的映画とも言われる「男はつらいよ」シリーズは、若い頃から好きで、そのほとんどを観ている。全
48作の中には出来不出来もあるけれど、その中で心に残る作品の一つに、県内の龍野を舞台にした
ものがある。高名な画家と寅さんがふとしたきっかけで出会い、どういうわけか秘書のような立場にな
り、龍野へ行く物語である。
この映画では龍野の町が美しく描かれていた。町の中央を川が流れ、そのすぐ後ろに迫る山を背景に
物語は進んでいく。画家役の宇野重吉が若い日に愛した人として、ソ連(当時)への恋の逃避行で知ら
れる往年の名女優、岡田嘉子も出演している。
映画を観て数年後、舞台となった龍野に旅をした。醤油工場の土蔵や、武家屋敷の白壁が残る、まさ
に小京都といえる静かな町だった。夕暮れともなると、どこからかこの町出身の詩人、三木露風が作詞
した「赤とんぼ」の曲が流れてくる。
何にも束縛されず、風の吹くままに町から町へ旅をする、そんな寅さんに憧れていた。そんな暮らしは
無理だと分かってはいたけれど、詩や童話を作り、何とか書くことで食べていけたらと、強く願っていた二
十代の終わり頃だった。
寅さんの歩いた道を歩きながら、映画の中のセリフを思い出していた。老いた画家がかつて愛した人
に、「僕は後悔している」と謝る場面である。そう言われた相手は静かな口調で、次のように言う。
「私、このごろよく思うの、人生に後悔はつきものなんじゃないかしらって。ああすればよかったという後
悔と、どうしてあんなことしてしまったのだろう、という後悔と……」
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パルナスの歌
先日、新聞を見ていたら、「パルナス」の文字が目に飛び込んできて、思わずその記事に引き寄せら
れた。そこには、「パルナスの歌」がCDに収録され、初めて発売されることになった、と書かれていた。
パルナスか、懐かしい。記事を目にした瞬間、頭の中に「パルナスの歌」が流れてきた。パルナス、パ
ルナス、モスクワの味……。スローテンポの何とも言えぬ悲しげなメロディー。こんなに暗い曲調のCM
ソングは、他にはないのではなかろうか。子供の頃、テレビからこの歌が流れてくると、遠い異国へひと
りぼっちで行ってしまったような気分になった。
このCMは関西だけしか流れていなかったようだが、関西人でもこの歌を知っている人は、今何歳ぐら
い以上の人だろう?
パルナスは一九四七年に神戸で創業。ロシア風洋菓子の製造販売メーカーで、二〇〇〇年に廃業し
ている。歌を聞かなくなって久しいので、もっと早くなくなっていたと思っていたが、つい最近のことなので
ちょっと意外な気がした。インターネットで検索すると、今も多くのパルナスファン(というよりも、パルナス
の歌ファンか?)がいるようで驚かされる。
パルナスの歌を口ずさむと、白黒のテレビ画面がよみがえってくる。日本がまだ今ほど豊かではなく、
洋菓子などそんなに簡単に口にできる時代ではなかった。デパートの大食堂で、ホットケーキを食べる
のを楽しみにしていた子供の頃を思い出す。
そんなわけで、パルナスの歌は覚えているけれど、パルナスのお菓子を食べた記憶はない。モスクワ
の味って、どんな味なんだろう?
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八月の風船
広島、長崎に原爆が落とされ、敗戦が秒読み段階になっていた時にも、日本の勝利を信じて、日々
の仕事に励んでいた人達は多かったのではなかろうか。風船爆弾という、不可思議な兵器を作るため
に動員された女子学生たちの多くも、多分そうだったろう。
風船に爆弾を積んで、アメリカ本土を攻撃しようなどとは、今から思うとお笑いぐさだが、当時は新兵器
として、多少期待されてもいたようだ。その期待は神頼み的なものではなく、それなりに科学的根拠に裏
付けられたものだった。
ジェット気流というものが、まだどこの国にも知られていなかった時、日本の気象観測官がこれを発見
し、軍部がこの気流に風船を乗せればアメリカまで届くと考えたのだった。
野坂昭如著『戦争童話集』の中の一篇、「八月の風船」にこの風船爆弾のことが詳しく描かれている。
直径10メートルにも及ぶ風船を作るために、女子学生たちは紙を漉き、その紙をコンニャクで作った糊
で張り合わせていく。それはかなり過酷な作業であったようだ。そして、そんなにがんばって作った風船
も、終戦の日には全て無駄になってしまう。もう爆弾を付ける必要もなくなった風船がひとつ、晴れわた
った夕空に消えていく……、そんな印象深い情景でこの物語は終わっている。
作者の野坂さんは、生後半年から十七歳までを神戸で過ごしている。終戦の年、激しい空襲の続く
中、疎開先の福井県で妹を栄養失調でなくしてしまう。その贖罪のために、神戸や西宮を舞台とした名
作「火垂るの墓」を書いたという。
夕空に消えていく巨大な風船は、戦争の犠牲となって死んでいった幼い妹の姿でもあるのかもしれな
い。
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東京コロッケ
梅雨が明けると、各地で夏祭りが本番となる。
子供の頃、近所の神社で行われるお祭りが楽しみだった。学校から帰ると、お小遣いをもらい、友達と
神社へ駈けるようにして行った。
金魚すくい、輪投げ、リンゴ飴……。さまざまな屋台が懐かしくよみがえってくる。中でも「東京コロッケ」
は懐かしい。
いつのまにか姿を消してしまったが、当時のお祭りには必ずこの屋台があった。ビー玉ぐらいの大きさ
の、揚げたてのコロッケを自分で串に刺し、容器に溜められた薄口ソースに漬けて食べる。これだけで
もかなり風変わりな代物だが、さらにユニークなのは、コロッケの数をパチンコで決めるという仕組み。
玉がどの穴に入ったかで串に刺すことのできるコロッケの数が変わってくる。十個の穴に入ったら十個、
どこにも入らなかったら最低の六個、という具合。子供の頃、この結果に一喜一憂したものだった。
この東京コロッケ、東京という名が付いているのに、東京にはなく、関西だけのものだったということ
を、数年前、ネットで調べていて初めて知った。そして、東京には、大阪では聞いたこともない「大阪焼
き」という名の屋台があるということも。こちらは回転焼きふうの皮の中に、お好み焼きの具が入ってい
るものらしい。
地名が付いているからといってその地にあるとは限らない。ナポリタン(スパゲッティ)はナポリにない
し、天津飯も天津にはない。身近なところでは明石焼き。明石には明石焼きがない。と言ってもこれは呼
び名が違うだけで、地元では同じものを玉子焼きと呼んでいる。明石焼きの名が全国区になった今も、
昔ながらの名前で呼んでいるところに、地元の人の「正式名」へのこだわりと愛着を感じる。
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明石の入道
前回、源氏物語のことを書いた。帝の婚約者と関係を結び、それが原因で、光源氏が須磨へ都落ちし
ていくくだり。その須磨で、自身の不遇を嘆きつつ暮らしていた源氏は、ほどなく噂を聞きつけた明石の
有力者に請われて明石へ移っていく。そしてそこでまた、その有力者の娘と関係を持ってしまう。
今なら、つくづく女好きで、情けない男だと思われるところであるが、千年前と今とでは男女の関係もか
なり違う。特に高貴な身分の公家社会にあっては、何人もの女性と関係を持つことが許されていた。結
婚という形態も、今のような一夫一婦制ではなく、余裕(財力)があれば、何人でも妻を持つことができた
から、あながち源氏を責めることはできない。また一度関係を持つと、たいていの場合、それが結婚とみ
なされてしまうので、男の方でもそれなりに覚悟が必要だったのではないかと思う。
一方、こういう制度の中で、女性たちが平然としていたかというと、そうでもない。次々と違う女性と関
係を結び、したい放題に見える源氏も、最愛の妻、紫の女王に責められて、たじたじとなったりしてい
る。昔も今も、嫉妬の情は変わらないようだ。
源氏を明石に誘った有力者は、前の国司で、仏道に入ったため明石の入道と呼ばれている。明石と
いえば蛸。蛸と入道で蛸入道。それでつい、文中に「明石の入道」と出てくると、大きなタコが袈裟を着て
歩いていたり、お経を上げたりしている図が浮かんできたりする。いつもこんなふうだから、僕の読書は
なかなか前へ進まない。
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須磨
子供の頃、須磨の水族館によく行った。親に連れられて行くこともあれば、学校の遠足で行くこともあ
った。今のように観光スポットの多い時代ではなかったから、日帰りで子供たちを連れて行くには格好の
場所であったのだろう。
大人になってからは足が遠のき、須磨へは海水浴や須磨離宮の見学で時折訪れる程度になった。水
族館は、「海浜水族園」と名を変えてリニューアルしてから何度か行ったが、それからでももう十年以上
は経っているような気がする。
世界最古の長編小説と言われる源氏物語に須磨の出てくる章がある。帝(源氏の異母兄)の婚約者と
関係を結び、それが発覚して、源氏が都から落ちていくくだりである。蟄居の地として選んだ須磨に辿り
着いた源氏は、遠くの浜辺から立ちのぼる塩を焼く煙を見ながら、こんなわびしいところに落ちぶれて、
としきりに嘆いている。
今では京都から電車で一時間ちょっとの距離であるが、この当時は都からはるか離れた僻地の感が
あったようだ。またこの当時、須磨が都にまで知れわたるほど有名な塩の産地であったというのは、この
章を読むまでは知らず、とても意外な感がした。今の須磨にはもちろん塩田はない。かつて海女たちが
塩を焼いていた浜辺には、しゃれた三角屋根の水族園がそびえ、夏ともなれば、若い女性たちが寝そ
べって塩ではなく肌を焼いている。千年前の源氏には想像もできなかった光景だろう。
久しくご無沙汰しているが、須磨は懐かしい街である。駅に降り立つと、いつも潮の香と共に子供の頃
の記憶が甦ってくる。
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不思議な町
今、外ではウグイスが鳴いている。
きれいな鳴き声の中に、時折ぎこちない声が混じる。あれは今年生まれたウグイスだろうか、などと思
いながら聞いている。
五年前、大阪からこの神戸の北の端に移ってくるまでは、自宅でウグイスの声が聞けるなんて思いも
よらなかった。
「本当にここ神戸市?」と、訪ねてきた人に驚かれることがある。周囲を山で囲まれて、一見、隠れ里
のようになっている。下界(?)へ通じる道は一本しかなく、ここを閉ざされたら完全に陸の孤島となって
しまう。三十年ほど前、まだ高度経済成長の続いていた頃、山を切り開き、別荘地として開発されたとこ
ろだという。
二十七年間の宮仕えを辞し、どこか静かなところで暮らしたいと新居を物色していたところ、この地と
巡りあった。不動産屋のチラシには、「宝塚のビバリーヒルズ」と書かれていた。ビバリーヒルズと言われ
ても、映画のタイトルぐらいしか思い浮かばず、ピンとこない。何はともあれ現地を案内してもらうことにし
た。
国道をそれて、車は細い山道を登っていく。こんなところに住宅地があるんだろうかと不安に思ってい
ると、急に目の前が開け、眼下には別世界のような美しい街並みが……。それは何だか不思議な魔法
のようだった。
魔法は五年経った今も続いているような気がする。別荘地として開発されたからか、ここには生活の
匂いがまるでしない。犬の散歩をしていても、ほとんど人と出会わない。どの家もしんとして、ただ空だけ
が大きく広がっている。
ビバリーヒルズというのは、こういうところなのだろうか?
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