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日々のあれこれ

日々のさまざまな思いや出来事を、つれづれなるままに綴っていきます。

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2003年12月27日 土曜日

イタリア観光記(3)−「無賃乗車のできる?交通機関」の巻
 イタリアの市電(トラム)や地下鉄に乗ってみて、その料金システムの日本との違いに驚かされた。最大 の違いは、切符をちゃんと買っているかどうかチェックする仕組みがないこと。日本の市電やバスでは、 降りる時、または乗る時に現金で料金箱に支払うが、イタリアではその料金箱がない。3つくらいある扉 から切符も出さず、お金も払わず自由に乗り降りできる。地下鉄も同様。改札らしきものはあるが、駅員 もおらず、切符を通す自動改札機もない。だから切符がなくても自由に行き来ができる。
 切符は町の至る所にあるタバッキと呼ばれる日本で言えばキオスクのようなところで売っている。1回 券(約100円)、1日券(約400円)、1週間券(約1,700円)の3種類あり、市電、バス、地下鉄のどれ にでも乗れる共通券となっている。1回券は75分間有効で、その間なら乗り降り、乗り継ぎが自由にでき る。市電やバスには車内に(地下鉄は改札に)刻印機と呼ばれる箱があり、最初に乗った時まずそれに 切符を通す。切符には時刻が刻印され、それから75分間有効となる。しかし実際にはこの刻印機に切 符を通している人はほとんど見かけない。皆本当に切符を持っているのだろうか、と思ってしまう。聞くと ころによると、ごくたまに検札があるらしいが、地下鉄のあの混雑の中で検札をするのは無理だろう。
 こうした仕組みは人を信用することによって初めて成り立つ。イタリア人というのは大らかなのか、それ とも単に細々とした仕組みを作るのが邪魔くさいだけなのか? 無賃乗車の実態はどうなんだろう。一度 関係者に聞いてみたい気がする。
 地下鉄に横行するスリ集団の方々は、きちんと切符を買ってお仕事をされているのだろうか。そんなわ けないだろうな、たぶん…。


2003年12月23日 火曜日

イタリア観光記(2)−「イタリアなんか大嫌いだ!」の巻(その2)
 (1)を書いてから10日以上も経ってしまったけれど、続きを書くことにします。
 (1)に書いたデジカメの被害に遭う前に、実は被害すれすれの所まで行っていたのでした。
 その日の朝、やはり地下鉄に乗ってローマの中心部に出ようとしていた時のこと、満員の車内で女の 子から声をかけられた。14,5歳くらいのとても可愛い女の子。「今、何時ですか?」(英語)と聞くので、 「○時○分」(英語)と答えたのだけれど、よく分からないような顔をしていたので、腕時計をその子の顔 の前に出し教えてあげた。その時の表情がちょっと変な気がしたけれど、言葉がよく伝わらず戸惑ってい るのだな、くらいにその時は思っただけだった。
 最寄りの駅に着き、妻からバッグ大丈夫? と聞かれ、バッグを見ると、チャックが半分くらいまで開い ていたのでびっくり。慌てて中を調べたけれど何も盗られていず、ほっと安心。盗む前に駅に着き、どうや ら未遂に終わったようだった。
 今回のイタリア旅行で悟ったのは、「盗む前には声をかける」ということだった。声をかけ、相手の注意 を逸らし、その間に犯行に及ぶという手口のようだ。しっかり者の妻は、同様に仲間らしき女の子から 「今、何時?」と声をかけられていたけれど、「ノン」ときっぱり相手を退けていた。それを見て、僕は、「そ んなに邪険にしなくてもいいのに」と思ったものだけど、結果として妻の判断の方が正しかった。
 イタリアには「ジプシー」と呼ばれる子供のスリ集団がいると添乗員の人から聞かされていたけれど、ま さかこんな普通の格好をした、しかもこんな可愛い女の子がその「ジプシー」だとは思わなかった。妻に 言わせると、「一番可愛い子が声をかける役割であり」、僕はその「可愛さに目がくらんだ」バカな男という ことになる。
 イタリアにこれから行こうという人には、地下鉄には乗らないようにおすすめします。どんなに注意して いても、いったん目を付けられたらやられてしまう。同じツアーの90人中4人がこのローマでスリの被害 に遭ったとのこと。パスポートを盗られた人もいたようです。
 イタリアでは、地下鉄に限らず、バス、市電等、交通機関は全て切符なしでも乗れてしまうので、こうい う犯罪も多いのだろう。それにしてもどうしてこういうシステムになっているのか、日本では考えられない、 と被害に遭った後、つくづくと思ったものでした。(続く)


2003年12月20日 土曜日

初雪
 昨日は早く寝たせいか、今朝は3時半頃に目が覚めた。外はまだ真っ暗。机に向かい、たまっていた 寄贈本や手紙の返事を書く。6時過ぎ、書き終えた手紙を出しに行こうと玄関の扉を開ける。と、外は真 っ白! びっくりして、しばし雪景色に見とれる。昨日は冷たい強風が吹き荒れていたけれど、まさかこん な積もるほどの雪になるとは思わなかった。
 道に一筋車の跡。そして人の足跡が転々と。よく見ると、各家の郵便受けへジグザグに続いている。新 聞配達の人の足跡だと分かる。何だか童話の世界のようだった。
 恋人よ、雪はその白さから治らない。
 というフランシス・ジャムの詩句をふっと思い出す。
 しずかな雪の世界。雪は音まで吸収してしまうかのようだ。

 「イタリア観光記」、続くと書きながら、一向に続きが出てこないので、どうなっているんだと思っている方 もおられるかもしれません。次々と先に書くことが出てくるので延び延びになっていますが、近々続きが 出る、と思います…。


2003年12月16日 火曜日

戦争犯罪
 フセイン元大統領の身柄拘束、という衝撃的なニュースが14日(日)夜、テレビのテロップに流れた。 深夜の報道番組では、米英占領当局が記者会見を行い、その拘束時の模様をいかにも誇らしげな顔で 話していた。会見場では立ち上がって歓声を上げる記者たちもいる。喜びに沸く米兵たちの姿も映る。そ れらを見ていて、何か割り切れないものを感じずにはいられなかった。その割り切れなさは、翌日の夕刊 に載ったブッシュ米大統領の、「フセインは戦争犯罪者として裁きを受ける必要がある」という演説に端 的に表れている。
 自国民を長年苦しめてきた独裁者の拘束は確かに喜ばしいことである。けれど、それを拘束したのは 他の国家であるアメリカである。アメリカがイラクに不当な戦争を仕掛け、大量破壊を行い、他国を不当 に占領し、元の指導者を戦争犯罪人と決めつけた。こんなことが許されるのだろうか? 自国の価値観 や基準(というより都合)だけで相手の善悪を決めつける。自国の利益を損なうとみなせば容赦なく相手 を攻撃し、支配する。ここには論理も法もない。ただ力が正義であるという図式しか見られない。1980 年にイラン・イラク戦争が始まった時、フセインを支援したのはアメリカだった。アフガン戦争の時、オサ マ・ビンラディンの武装集団を支援したのもアメリカだった。常に自国の損得だけで敵味方を選別する。
 もしフセインが戦争犯罪人として裁かれるなら、イラクの町を破壊し、混乱に陥れ、多数の市民を殺害 したブッシュも同時に裁かれる必要があるだろう。
 15日付の夕刊(朝日)には、アフガン民衆法廷で「ブッシュ米大統領は有罪」という記事も載っていた。 米軍によるアフガン攻撃を「侵略の罪」や「無差別の民間人攻撃」による「戦争犯罪」と認定している。当 然の判決結果だと思う。


2003年12月11日 木曜日

イタリア観光記(1)−「イタリアなんか大嫌いだ!」の巻
 7泊8日のイタリア旅行から帰ってきました。旅の思い出をこのページにいくつか書こうと思っていたの ですが、その始まりがこのようなタイトルからなるとは、出かける前には思っても見ないことでした。
 イタリアはスリが多いので十分気をつけるようにと添乗員から繰り返し言われ、十分に気をつけていた のに、最終日のローマでそのスリの被害に遭ってしまった。地下鉄の中でのことだった。地下鉄は特に 注意するように言われていたのでショルダーバッグを首から斜めにかけ、さらにそれを体の前にして、チ ャックも手でしっかり押さえていたのに、それでもやられてしまった。バッグの横をナイフで切り裂かれ、そ こからカメラを盗られてしまった。まさかナイフで切り裂くとは思わなかった。全くの想定外のことだった。 だいぶん後になってからスラれたことに気付き、ひどい、ひどすぎる!と叫んだが、もう後の祭り。カメラ には100枚近くの写真が収められていた。旅の思い出が一瞬にしてパアー。まだ買って1年くらいしか経 たないデジカメなのに。旅の最後の最後にこんな目に遭って、「イタリアなんか大嫌いだ!」と、悔しさの あまりそう思わずにはいられなかった。このページにも撮ってきた写真のいくつかを載せようと思ってい たのに…。
 イタリア旅行は今回で2度目だが、前回もローマでカメラをなくしている。その時はタクシーに置き忘れ、 帰国してから旅行社や大使館に連絡し、調べてもらったが、結局出てこなかった。ローマではカメラをなく すという宿命でも僕は負っているのだろうか? どうしてこんな目に遭うの、と思いつつ帰国の途についた のでした。(続く)


2003年12月3日 水曜日

時代
 明日からちょっと海外へ行く。
 海外へ行くのに、「ちょっと」なんて言えるのが普通の時代になった。子供の頃は、「夢のハワイ、憧れ のハワイへ3日間ご招待!」なんてセリフがテレビの画面からよく流れていたものだった。今や隔世の感 がする。(今回行くのはハワイではなくイタリアだけど)。
 最初に海外へ行ったのは1974年、大学の3回生も終わりの早春だった。行き先はインド。学生の身 でありながら海外ツアーの企画運営をしている友人の誘いに応じてのことだった。今はやりのベンチャー ビジネスの走りのようなもので、 当時はこういう学生が結構いた。今や巨大企業となったリクルートも時 代は10年ほど遡るが、同様に学生の起こしたビジネスが成長発展したもので、そういう意味では学生ビ ジネスの元祖と言えるかもしれない。リクルートはビッグになったけれど、僕の友人はその後どうなったの か分からない。一時は羽振りがよく、テレビにも出演したりしていたけれど、その後まったく音沙汰がな い。彼は今どうしているんだろう。
 それはともかく、インドへの旅はほぼ1ヶ月。初めての海外に加え、全くの自由行動。不安だらけの旅 だった。初めの方では引いていた風邪が悪化して寝込んだり、終わりの方では足を延ばしたネパールで 赤痢にかかり脱水状態になったりもした。出発前には63kgほどあった体重が、帰ってきたら52kgになっ ていた。1ヶ月で11kg減。インドというところはダイエットするにはいいところかもしれない。かなり過酷な ダイエット法ではあるけれど。
 インドから1ヶ月ぶりに帰ってきたら、ストリーキングという聞き慣れない言葉が巷に飛び交っていた。裸 で市街を走り回る行動を指す言葉だった。テレビのニュースで、本当に真っ裸で走り回っている若い男女 を見た時には仰天した。何だか自分が浦島太郎になったような気がした。今回のわずかな旅の間には そんな変なことは起こらないと思うけど…。
 ストリ−キング、サイケ、ヒッピー…。いろいろと奇妙なことが流行した時代ではあったけれど、それなり に既成の体制や価値観に反発するエネルギーが若者の間に渦巻いていた時代だったと思う。泥沼化し ていたベトナム戦争が終結したのはそれから1年後(1975年)。友達はみんな髪を短くして就職試験を 受けた。僕は髪の長いまま面接を受け、落とされた。中島みゆきの「時代」がヒットしたのもこの頃のこと だった。 


2003年12月1日 月曜日

師走
 今日から師走。師走というのは忙しい、ということに相場が決まっているが、こちらはヒマ(な予定)。先 月はいくつもの締切に追われ慌ただしく過ぎたが、今月は締切が今のところ1本もない。楽なのはいいけ れど、仕事がないというのもちょっと淋しい。生活もかかっているし。編集者の皆さん、いい仕事があった らよろしく!(と一応売り込んでおこう)。
 勤めていた頃はこの時期になると忘年会というのがいくつもあって、それがイヤでしょうがなかった。飲 むのは好きだけど、職場関係のものは顔ぶれもそれほど変わらず、話題もほとんど仕事のことで、飲ん でいてもあまり楽しくない。これから解放されただけでも師走のストレスはだいぶん減ったと思う。
 それにしても、忘年会という習慣ができたのはいつ頃からだろう? 1年の終わりにまあ酒でもぱーっと 飲んで、イヤなことは忘れよう、なんてことから始まったのだろうか。1年の内にはいろんなことがある。い いことも、悪いことも…。僕にも、世界にも…。酒を飲んで忘れられるうちは、まだマシかもしれない。忘れ られない悲しみや苦しみを抱えたまま年を越す人もいっぱいいるんだと思う。


2003年11月24日 月曜日

冬の星座
 昨日の深夜、酔い覚ましに外に出てみたら、空がすごく澄んでいて、満天に星が輝いていた。しばらく ほーっと眺めていたが、「双子座」のことを思い出し、部屋に戻り、星座盤を探すことにした。半月ほど前 に読んだ新聞に「冬の代表的な星座」と載っていたのを思い出したからだった。星座で見分けがつくの は、オリオンとW字のカシオペアと北斗七星の3つくらい。今なら「双子座」も分かるかも、と思ったわけだ った。
 部屋で星座盤を探すが見つからない。去年の引っ越しの時、どこかへやってしまったらしい。仕方なく、 大きな百科事典を持ち出して、冬の星座のページを開き、天上の実物と見比べてみる。オリオン座の上 辺を東の方に延ばしたところに二つ並んだ明るい星。あった! あれがそうか、としみじみ見入る。つい でにオリオンを基点にして、「牡牛座」の目の部分にあたる星(アルデバラン)と、その少し西側にあるス バル(プレアデス星団)も発見! 何だか昔から名前だけ知っていて、今まで会うことのなかった人に出 会えたような、うれしい気分。星座が分かると、今までただきれいだなとだけ思って見上げていた星空に も親しみが湧いてくる。今度は自分の誕生月の星座である「乙女座」を探してみよう。これは「春の星座」 に出てくる。9月なのにどうして「春の星座」なんだろう?
 それはともかく、こんなふうに星空を眺めていても、ちょっと気がかりなことがある。深夜に男がひとり外 に出て、路上にぼーっと突っ立っていて、近所の人からヘンな人と思われていないかちょっと気にかか る。近所の皆さん、僕は決して怪しい人間じゃありませんよ、ただ星を見ているだけですから。と、ここで 言っても、誰もこのホームページを見ていないだろうしな…。


2003年11月17日 月曜日

不遇について
 先日、菅野美穂主演の「フジ子・ヘミングの軌跡」というテレビドラマを見た。
 フジ子・ヘミングという名前は何となく知ってはいたが、その音楽を聴くのはこのドラマが最初だった。映 像に重なって流れてくるピアノの音色は心に沁みた。
 ドラマでは、16歳の時、中耳炎のため右耳の聴力を失ったこと、国籍問題のためドイツ留学を一度は 断念せざるを得なかったこと、難民パスポートで何とかドイツ留学を果たしてからも、初リサイタルの直前 に風邪をこじらせて左耳の聴力まで失い、その後はピアニストとして認められないままヨーロッパ各地を 転々とする等、彼女の不遇がかなり誇張されて描かれていた。
 そうした不幸な境遇と重ね合わせて音楽(だけでなく芸術全般)を鑑賞することは、正しい鑑賞法とは言 えないだろう。そう思い、借りてきたフジ子のCDに耳を澄ませた。他のピアニストの演奏とも聴き比べて みたりした。その結果、フジ子の演奏はやっぱりいいと思われた。胸の奥に深く沁みこんでくるものが感 じられた。
 物書き、特に詩人の場合、世に認められないまま死んでいく場合が多い。逆に、死ぬことにより脚光を 浴びるようなこともある。宮沢賢治や中原中也など、もしも長生きしていたら今ほど脚光を浴びているか どうか分からない。それはともかく、詩人には死んでも作品は残る。生きている時は不遇でも、作品さえ 良ければ、いつかは金子みすゞのように光に照らされる時が来るかもしれない。でも演奏家の場合は生 きている時が全てだろう。光が当たらなければ、録音もされず、演奏は残らない。
 フジ子・ヘミングの場合、1999年に放送されたNHKのドキュメント番組が脚光を浴びるきっかけとなっ たのだが、脚光を浴びて良かったなと思う。こんな素晴らしい演奏を世に残すことができたのだから。


2003年11月10日 月曜日

  落胆
 総選挙が終わった。結果は自民党が若干減り、民主党が大躍進。これだけ見れば、政界の勢力図が 大きく塗り変わったように思えるが、与党対野党という全体の構図で捉えれば、大きな変化は見られな い。社民党や共産党の議席を民主党が食っただけで、与党の議席を大きく奪い取るまでには至らなかっ た。
 この結果では、今までの政策が変わることはまずないだろう。12月には自衛隊がイラクに派遣される ことになるだろう。この1点だけ見ても、今回の結果は残念で悔しい。
 投票率が低かったのも予想外だった。有権者の40%もの人が今の政治に関心がないという状況は、 憂えざるを得ない。若い世代に特に無関心な者が多いのだろう。こうした状況に対して、詩に何ができる のか、書くことで何ができるのか、ちょっと考えてしまう。




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